戦後間もない頃から創業して今に至るのだろうか。
いつも足繁く通う客で賑わうその割烹の女将は齢80を越えてもなお現役である。軽くお辞儀したように腰は曲がり、垂れ下がった瞼は視界を遮っているため、彼女の視線は常に下へ投げられる。
『いらっしゃいませ、ご注文は?』
『ひつまぶしを下さい。』
『えっ、何ですか?』
他人から言われるまで気づかなかったが、私は滑舌が悪い。どうやら老女将には私の注文が伝わってないようである。私は壁に貼られた短冊メニューを指さし、
『ひ・つ・ま・ぶ・し』
と改めて低音かつ一文字区切りで伝えたが、それでも私の意に反した日替わり定食が運ばれることとなった。おそらく彼女の視線は短冊メニューに届かず、はじめの『ひ』しか伝わらなかったのだろう。隣に案内された老女将と変わらない齢を重ねた翁は席に座るなり店中に轟かんばかりの声で言い放った。
『ひまつぶしっ』
店内は静寂に包まれた。誰もが耳を疑うとともに、老女将がいったい何を運んでくるのか心待ちにしただろう。